脚本家の「野島伸司」といえば、
「101回目のプロポーズ」「愛という名のもとに」「高校教師」「ひとつ屋根の下」「聖者の行進」…
もう、ドラマのヒット作は、数えられない。
「家なき子」も、社会現象化した。
ドラマとともに、若き日の自分を思い出してしまう。
「薔薇のない花屋」という題名自体に、すでに、興味をそそられてしまうが、
一回目のラストシーンで、
主人公の汐見英治 (香取慎吾)と
謎の盲目の女性・白戸美桜(竹内結子)
が、雨の中、交差点を二人で、一本の赤い傘をさしながら、
立ち尽くすシーンがある。
そう、それは、まるで交差点にさいた薔薇の花のようだった。(上からの映像あり)
とても、美しかった。
それは、まだ、恋もはじまらず、謎も解明されていない、いや、出会い以外は、まったく何も始まっていない二人の未来を暗示するかのような、美しくそして棘のある薔薇の花。
連続ドラマというものを、よくわかっている人にしかできない脚本だ。(いや、演出のほうかもしれないが…)
いずれにしても、ストーリーが、よく練られている。
私は、一本ものの映画も好きだが、
実は、連続ドラマも好きだ。
なぜなら、楽しみ方が実はまったく違う。
映画では、通常、その2時間〜3時間という制約のある時間のなかで、楽しめる作品でなければならない。
本来は、「続編を見なければわかりません」というのは、ルール違反だ。
そこに、凝縮された、エンターテイメント・芸術がある。
しかし、
連続ドラマには、別の楽しみ方がある。(と、私は思う。)
それは、なにより、続きがあることだ。
次回とか、来週とか、次につながっていく楽しみがある。(そして、視聴者は、その期間を、ワクワクしながら、予想したり、想像したり、あーでもない、こーでもないと楽しむのだ。)
したがって、常に、次回への伏線が必要となる。
ここが、連ドラの肝だ。
そのことを、このドラマの製作者は、よく、わかっている。
私は、「交差点に咲いた薔薇の花」で、一発で、はまってしまった。
謎もある。
なぜ、白戸美桜(竹内結子)は、盲目を演じているのか。
これは、現段階では、わたしにはまったく予想ができない。
これからの楽しみでもある。
しかして、「野島伸司」作品は、一種独特の世界を、見るものに感じさせる。
「野島伸司」からは、「地に足が着いた」作風を感じる。
気がつくと、現代の情報の氾濫の中で、常に、ひとは、社会に、世界に、全体に、目を向けねばならない。
そうでないと、遅れるからだ。(勝てないからだ。)
しかし、「野島」は、ドラマの中で、「そうではない」と語りかける。(と、私は思う。)
「幸せは、もっと身近なところにある」と。
そうすると、ドラマを見ていた我々は、はじめて気づく。
世界や、社会ではなく、個人や家庭を。(それに目を向けることに)
しばらく、忘れてしまっていた「自分」という存在があることを。
あたたかく、切なく、そして、「善悪の両方を含んだ」人間という存在を。
ふと、思い出す。
「全体」よりも、「個」の重要性を。
そして、「個」の中にこそ、真実があるということを。